大阪大学と塩見理化学研究所

大阪医科大学学長の楠本長三郎と柴田善三郎大阪府知事を中心とした帝国大学の招致運動において、塩見政次の理科大学創設への夢を担って誕生した塩見理化学研究所は、その意向に応えて運営資金から40万を寄付することを早々から申し出ていた。柴田知事の回想によれば、塩見理化学研究所からこの申し出があったことに意を強くし、招致運動に弾みがついたと述べている[5]。まずこの点で塩見理化学研究所が大阪大学誕生に果たした役割は大きい。

理学部開設にあたり、総長、長岡半太郎は塩見理化学研究所を全面的に大阪大学に吸収することを望んだが、当時の研究所の理事であった佐多愛彦はそれを断り、独立した財団として維持することこそが故人の希望に沿うものだと判断した。初代理学部長眞島利行と研究所所長小倉金之助との間の交渉の結果、財団は独立したままとし、職員の俸給は大学から支給することなり、結果として多くの人材を大学の教員として送り出す役割を果たした。

大阪大学医学部前の佐多愛彦胸像

理学部の設立が認可されてから、理学部の建物が1933(昭和8)年に竣工するまでの間、塩見理化学研究所は徐々に陣容が固まりつつあった教員の活動の場ともなった。講師に採用されてからもなかなか論文の出なかった湯川秀樹が物理学科の主任であった八木秀次に叱咤激励されたのも、塩見研究所の一室であったという。

独立の財団として活動をつづけた塩見理化学研究所だが、戦後の経済的混乱から運営資金を維持することが困難になり、1956(昭和31)年に解散しすべての資産を大阪大学に譲渡することとなった。現在の理学部塩見記念室には、研究所の設立に情熱を注いだ佐多愛彦(1871~1950)と塩見政次(1878~1916)の横顔を描いた記念レリーフが残されている。また、研究所の建物も医学部癌研究所としてその後も使用された。

理学部塩見記念室内の大阪大学移管記念レリーフ

塩見理化学研究所では、理学部創設以前から海外の文献の収集を進めてきたので、その図書は大阪大学に移管され、現在も図書館に所蔵されている。

大阪大学図書館に残される、塩見理化学研究所旧蔵書のうちの一冊。背表紙に旧字体で「鹽見」と記載されている。
塩見理化学研究所蔵書印が押された表紙ページ

塩見理化学研究所と塩見政次は、総合学術博物館の展示において大学の創設に果たした役割を顕彰されているとともに、理学部塩見記念室にその名を永遠にとどめている。

大阪大学総合学術博物館の塩見理化学研究所の展示

[5] 『大阪大学五十年史 通史』大阪大学五十年史編集実行委員会、大阪大学 発行(1985)