塩見理化学研究所

財団法人 塩見理化学研究所の認可は1916(大正5)年で、ほぼ同時期に国と財界が一体になって設立を準備し1917(大正6)年に設立された東京の「理化学研究所」にわずかに先んじている。ほぼ一個人の資金によるものであるとはいえ、託されてから二週間ほどで認可を達成できたのは佐多愛彦の情熱のたまものである。

塩見はその研究所の運営を、米国のロックフェラー研究所に範をとり、独立した運営を可能にするため寄付総額100万円の内25万円を設立資金、残り75万を運営基金とすることとした。

佐多は研究所の創設にあたって、当時の学会の重鎮、のちの大阪帝国大学初代総長である長岡半太郎に助言を求め、長岡が研究員の人選にも協力していたという。

当初は建物も設備もないという状態だったので、研究員は大阪医科大学や、その予科の教員を兼任で勤めていた。一方、研究員の海外派遣により人材の育成や、海外文献の収集を進めていた。

塩見理化学研究所の建物は1925(大正14)年に堂島川北岸の医科大学病院の北東に接して建築された。

塩見理化学研究所の研究員

部門 1917(大正6)
発足時
1925(大正14)
研究所竣工
1931(昭和6)
阪大創設
1956(昭和31)
財団解散
所長佐多愛彦清水武雄小倉金之助佐多直康
理事小山健三佐多愛彦佐多愛彦竹原八郎
物理清水武雄清水武雄(東京帝国大学教授に転出)
岡谷辰治岡谷辰治(阪大教授)
淺田常三郎淺田常三郎(阪大教授)淺田常三郎
数学小倉金之助小倉金之助小倉金之助(阪大講師のち退職)
竹中暁竹中暁
化学古武彌四郎(府立大阪医科大学教授と兼務、のち大阪医科大学に専任)
近野政次中島健太郎
千谷利三(阪大教授)
佐多直康(阪大助教授のちに教授)佐多直康

建物が竣工した直後の1926(大正15)年と、大学の設置が決定した1931(昭和6)年の塩見理化学研究所要覧[4]が大阪大学アーカイブズに残されていて、建物の外観や平面図、実験室の様子を今日に伝えている。

1925(大正14)年に竣工した塩見理化学研究所(写真は全て大阪大学アーカイブズ所蔵。 門標の写真以外は要覧[4]に掲載)
当時の塩見理化学研究所門標
一階平面図
二階平面図
三階平面図
地階平面図
物理実験室
化学実験室

また、理学部設立が決まった時点において、塩見研究室の研究員の業績リストもまとめられ要覧と共に製本・保管されている。その中の一人、淺田常三郎はのちに物理学科の教授に着任し、実験物理学で名を馳せた。弟子の中に、ソニーの創業者の一人の盛田昭夫がいて、淺田のアドバイスに会社がたびたび救われたことを振り返っている。

1931(昭和6)年の業績リスト表紙
1931(昭和6)年の業績リスト目次
淺田常三郎の業績をまとめた頁

大学設立までの研究所の主な業績としては、清水武雄の連続アルファ粒子発生機の考案、レントゲン線を用いる物質の特性の研究。小倉金之助の補間法理論に関する研究、日本数学史の研究。岡谷辰治の医学における統計学的研究。古武彌四郎、岩尾次郎によるトリプトファンなどのアミノ酸代謝の研究。内藤鋼一の灌流溶液反応のガマ心臓に及ぼす影響についての研究。近野政次のアミノ酸の定量法の研究。淺田常三郎の水銀灯の研究。竹中暁の連立線型積分方程式、正則関数などに関する研究。中島健太郎の動物体内のアミノ酸の分解の研究などである。また大学設立後も、大学と兼任した研究員により、佐多直康らによる膠質学的研究、特に超音波の膠質学的作用についての研究、淺田常三郎の高圧水銀灯の研究、千谷利三、小泉正夫による重水の研究などが行われた。

[4] 『財団法人 鹽見理化学研究所要覧』大阪大学アーカイブズ所蔵