塩見政次の信念と夢

塩見政次氏

「凡そ事業家を志す者は理化学の知識涵養こそ必修である」

「学術の根本培養を怠らば、一国の文化は許すに独立不羈を以てする事能はざるべし」

塩見政次は1878 (明治11) 年1月5日、岡山県美作国久米郡西川村大学通谷に塩見隆造の二男として生まれた。父祖の医業を継ぐために、大阪大学医学部の前身である大阪医学校に学び、1900(明治33)年7月に卒業した。同年、京都帝国大学医科大学生理学教室の助手となったが、翌年12月陸軍に志願し、満期除隊後の、1903(明治36)年大阪市高麗橋で医院を開業した。その後、日露戦争においては軍医として濱田、広島などで勤務し、帰還後は大阪市の医政にかかわるなど医業に励んでいた。その傍ら、1907(明治40)年、緒方正清(緒方洪庵の孫、千恵の夫)らとともに、喜多尾化学研究所を設立し新薬レスピラチンの製造・販売などの実業の世界での活躍を始めた。

さらなる転機として、当時の日本においては亜鉛をすべて輸入に頼っていたことに着目し、それを克服するため1909(明治42)年、尼崎に大阪鉱業試験所を創設して亜鉛精煉の研究を始めた。1911(明治44)年には藤田傳三郎が率いる藤田組の支援を受け大阪亜鉛鉱業を設立し、その専務取締役となり会社を率いた。この事業は、第一次世界大戦による世界的な需要急増も相まって大発展を遂げた。その反面、この事業による多忙さは塩見の体を蝕み、ついには1916(大正5)年10月24日[2]に39歳の若さで亡くなった。

「吾が半生」に掲載された各時代の塩見政次の肖像(大阪大学アーカイブズ所蔵)

塩見は病床にあって自叙伝「吾が半生」を著した[3]。その中で自身の考えを語っていて、その人となりが偲ばれる。

「子弟の為に財を遣さず、財を以って祖先の余沢に依頼するを最も戒む」

「交際先を選ぶにも、使用人を採用するにも、総べて人格を中心の問題とし、他に長所ありといえども、人格なきものは之れを近づけざる事」

塩見政次は、もともと神戸住吉に広い敷地を用意し自らの手で純粋な理化学の研究所を運営することを願っていた。しかし自身の死期が近いことを悟り、母校を府立大阪医科大学に発展させた当時の学長、佐多愛彦を、死の直前の10月6日に病床に招き、理科大学の創設を見据えた研究所の設立を託した。佐多愛彦は塩見が存命の間にその設立を図るべく奔走し、10月21日には国から設立の認可を受けたが、その直後に塩見は亡くなり完成した研究所の姿を見ることはなかった。そのことを顕彰する銅像が作られたが戦時中の金属供出によって戦後は台座だけが残されていた。胸像は1955(昭和30)年に石膏像として復元され、現在は総合学術博物館に安置されている。

「台座」の正面には原敬の筆で、「臨見政次君之像 泊堂 原敬書」と刻まれている。(写真は大阪大学アーカイブズ所蔵)
「台座」の裏面には「名古屋市関川彦太郎君故人の誼を追偲し遺像を贈らる仍て浪華の名工平清氏に嘱して工を成し庭内に建立して永遠に伝ふ 大正八年十月下浣」とある。(写真は大阪大学アーカイブズ所蔵)
大阪大学総合学術博物館に安置されている復現された塩見政次胸像。裏面の銅板に「本研究所は故塩見政次氏が我邦理化学の振興と大阪学府の発展を目的として…(中略) 昭和三十年十一月 財団法人 塩見理化学研究所」と記載されている

[2] 後掲[3]の略歴、並びに主治医の記事による。しかし当時の新聞記事や、後掲[3]の他のいくつかの記事では22日に逝去としている。

[3] 「吾が半生」 塩見政次 他、編集 高見建一(1917)なお高見建一は塩見政次の義弟